広告主は、広告が単にコンバージョンを促進しているかだけではなく、オーディエンスの日常生活をどのように豊かにしているかという点についても気を配るべきである。

「これは、今までに見た中で、最も馬鹿げた広告だ」と、私の妻は叫んだ。いつも通り、Huluでアメリカのテレビドラマ「The Handmaid’s Tale(侍女の物語)」を見ている途中、見苦しさだけがその愚かさに勝る広告によって、ドラマは(もう一度)中断された。私は「広告ありアカウント」に申し込んだものの、広告の世界にまだ片足をつっこんでいる一研究者として、自分の判断に疑問を持ち始めていた。我々がドラマの豊かなビジュアルと刺激的なテーマに没頭しているちょうどその時、横柄といっていいほど派手で軽薄な広告によって、我々は熟考から引き離されたからだ。それぞれのコマーシャルブレイクが終わると、再度広告によりドラマが中断されるというサイクルが繰り返されることを覚悟しながら、Atwood(マーガレット・アトウッド、ドラマ「The Handmaid’s Tale」のもととなった小説の作者)の魅惑的な世界に慎重に滑り込む。まもなく、コマーシャルによって、苦痛を与えられることを知りつつ、である。

 

魅了する広告から驚かせる広告への退化

20世紀初頭、広告は美を追求した。多くの人が、当時の広告を装飾作品としてフレームに入れ、飾っているというのも不思議ではない。複製はしばしば制限され、各作品の美的な資質がより重視された。鮮やかな色彩で幻想的なシーンと家庭的なシーンが表現され、冒険心や家族の温かさを呼び覚ます。こうした広告は、視聴者の視線をひきつけ、(しかるべき商品を購入したならば)手に届く満足感の世界に引き込む。

 

 

今日では、デジタルメディアが我々の最も私的なスペースにまで浸透しているため、広告を避けることはできない。しかし、広告が至る所に存在するが故に、多くの広告主とその代理店に視聴者のエクスペリエンスを向上させる広告を制作する必要性を印象付けることができていないように思える。むしろ、デジタル広告は多くの場合、よくても”ちぐはぐ”で、最悪の場合には広告に付随しているエンターテイメントの品質を損なっている。広告代理店は、クライアントに対し明確な義務を負っているが、オーディンスにも同様に気を配るべきだと考えられている。見苦しい広告では顧客を獲得することはできないのだ。

 

クライアントとオーディエンスは同意するだろう「美しい広告の方がよい」

表面的にいうと、オーディエンスが美しいビーチにいようと、自宅でくつろいでいようと、代理店は彼らの楽しみを邪魔しないようにすべきである。しかし、より高い目標を設定するのが望ましい。メディア・ランドスケープに積極的に貢献する広告を制作し表示することだ。代理店は、クライアントのブランドや商品を消費者に訴求する方法で見せる義務があるが、一方で、オーディエンスのデジタルメディアエクスペリエンスを向上させる方法で行うことが公益(そして、また代理店自身の利益)になる。

 

 

では、広告主は、クライアントに対する義務とオーディンスのニーズとのバランスをどのように取るのか? この点については、行動科学から多くを学ぶことができる。そして、いつもながら、その答えはストーリーから始まる。しかし、この質問に美しさの観点からアプローチすることにも価値があるだろう。 私のかつての上司であり広告のレジェンドでもあるFrank Lowe氏がかつて言っていたように、広告主には、世界を醜くするのではなく、美しさを添える義務がある。うれしいことに、「美しさ」は、オーディンスにとって好ましいだけでなく、広告にとっても有益であるということだ。

 

広告主と公衆との関係には、「コンテンツ」と「配信」という二つの明確な側面がある。広告のメッセージ自体とその形式は根本的な要素であるが、広告をどう受け取るかは常にそのプレースメントに依存する。我々はみな、少し場違いに見える広告を見たことはあるはずだ(企業のロゴで飾られたビーチパラソルは、最もわかりやすい例である)。インターネット時代では、オーディンスがどこに行こうとも広告を目にするだけに、そのプレースメントは重要だ。

 

第一印象は生涯続く

我々はみな、どれほど印象が大事であるかを知っているが、この社会通念は行動科学によって裏付けられている。調査によると、「ユーザーは、ウェブサイトを初めて見た瞬間に、そのウェブサイトの魅力に対して不変の判断を下す」という。美しく作り上げられたインターフェースやデジタルコンテンツは、体験して楽しいだけのものではない。 それはまた、視聴者にクリエイターの細部に対するこだわりを感じさせ、信頼を呼び起こす。こうした第一印象は持続し、最初の露出以降も長期間にわたり、メディアとブランドの信頼性と有用性に対するオーディンスの意見に影響を及ぼす。

 

 

Steve Jobs氏は、インターフェースの美学のパイオニアであったが、美の誘惑の潜在力を認識したのは、彼が最初でも最後でもなかったことは確かである。今日でも、慎重に作られた食品の写真やデジタル加工されたモデルは、広告主が何らかの美の重要性を認識していることを示している。それではなぜ、これほど多くの広告が依然として見苦しいのか?ストーリーと同様に、美しさはコンテキストによって決定される。それぞれのプロットポイントの間(または広告と視聴環境との間)に連続性を持たせることは、視聴者のエンゲージメントを維持するために不可欠である。素晴らしい広告であっても、場違いのセッティングでは見苦しいものだ。

 

私は、以前の記事でデジタルコンテキストの重要性を論じた。オーディエンスは、適切にコンテキストト化された広告をより受け入れやすく、より容易に理解する。一方で、ブランドメッセージングは広告が掲載されるコンテンツによって培われた心理的な状態を利用することができる。「The Handmaid’s Tale」に話は戻るが、途中で挿入された派手な広告は番組の味わいのあるトーンとはひどく対照的で、我々のエクスペリエンスを分断させた。そして、ドラマの厳粛さと矛盾する広告の見せかけの熱意は、同様に癪にさわるものであった。我々が彼らのメッセージに対してどれほどオープンであったか想像できるだろう。

 

美しさはマインドを高め、心を開かせる

 

美しさと広告が密接に絡み合っていることは、おそらく明らかになっただろう。では、そもそも美しさとは何か?Merriam-Webster(米国の辞書出版社による英英辞典)によると、美とは「感覚に喜びを与え、マインドや精神を心地よく高める人・物のクオリティまたはそのクオリティの集合体」である。この最後の点は重要である。ストーリーと同様に、美しさの対象は高められるからだ。美しい広告は、その形式とプレースメントを通じてオーディエンスをより感情的および心理的に(そして寛容さにおいても)高次元の存在たらしめることで、メッセージにさらなる信頼性と訴求力を与えている。

 

だからといって、パリのアールヌーボースタイルのクラシックな美しさや、上品なYouTubeスポットは必要ではない。あるコンテキストにおいては喜びを与えているものでも、別のコンテキストでは効果がなかったり不調和なことがあるだろう。広告主は、メディアを使い、ウェブサイトにアクセスするオーディンスの目的を検討することから始めることが不可欠である。私の妻と私は「The Handmaid’s Tale」の美的で知的な喜びを楽しんでいるが、それらの価値観を反映した広告はよりカジュアルで軽快なコンテキストにおいては、威圧的に感じられるだろう。 言い換えれば、私たちを現実の世界に引き戻してしまうということだ。

 

広告は、アートのように、視聴者をありふれたものから可能性の世界へと導くことを目的としている。パブリックアートが単調な都会の景色を明るくすることができるように、広告は我々の日々の生活を際立たせ、我々が日常の先を思い描くための窓を開けるべきである。そうすることで広告は、それが、キャンディーバーを楽しむものか、保険の保障を享受するものであっても、視聴者が目の前に広がるファンタジーにふけるよう魅了することができる。今日、多くの広告は現実逃避を優先する傾向にあるが、真に強力な創造性は、視聴者を別の世界に逃避させるのではなく、より良い世界を想像するよう勇気づけるものであるはずだ。

 

素晴らしい広告は、商品だけではなく夢を売る

これからも、広告は存在し続ける。優れた代理店は、よりよいデジタルクリエイティブとよりインパクトのあるプレースメントを目指し、努力し続けるだろう。彼らのクライアントに対する責任は重要だが、オーディエンスに対する義務もまた重要だ。欲望のディーラーとして、広告主は単に広告がコンバージョンを促進するかどうかではなく、自分の仕事が視聴者の日常生活をどのように豊かにするかにも気を配らなければならないのだ。Keats(英国の詩人)の言葉を借りると、「美しきものは永遠の喜び」である。消費者へほぼユビキタスに届けることができる広告代理店には、永続的で好意的な印象を与える機会があるのだ。広告代理店業は、よいビジネスである。

 

※当記事は米国メディア「Marketing Land」の9/6公開の記事を翻訳・補足したものです。